「いやー、いつもは俺が並べるんだけど、今日はシフトに入る前にてんちょがやっててさ。ほら、てんちょももう歳だろ? 間違えてたからお前が来る前に並べなおそうと思ってたんだけど、忘れてた」
悪いなー、とけらけら笑うその人の口から飛び出た「てんちょ」が、ここの「店長」を指しているのだと気付いたのは、阿部が告げられた言葉の意味を頭でしっかり噛み砕いてからだ。よっこらせ、と見かけに似つかわしくない声を漏らしながら、彼らのところに数十部の雑誌を抱えてくる。全くと言っていいほど状況の読めない空気の中、ぽかんと呆けてしまった部員のうちで一番に我に返ったのはやはり花井だった。
「ぁ、って、手伝います!」
「え? あーいいっていいって。気にすんな」
や、でも・・と生来の苦労人気質が働いているのだろう、困ったように頬をかく花井に、バイトさんはへらりと笑いかける。
「自分の格好見てから言えっての。売りもの潰す気?」
ぐ、と言葉に詰まった花井は途端頬を赤く染める。別に泥だらけの練習着のままというわけではないが、それでも決して綺麗とはいえない。哀しいことに、自分で自分が汗臭いのが分かるのだから、目の前に居るこの人にしてみればものすごい臭いになっている可能性もある。何せ、練習を終えたばかりの球児が4人して固まっているのだ。
「それに――仕事だしな、これは」
「(・・・コイツ、ホントに男、か・・?)」
そうしてフッと笑みを浮かべたその顔は阿部の目に酷く穏やかで、だからこそ妙な疑問が沸き起こる。見た感じは、男だ。これまでも普通に男だと思っていたし、疑問を差し挟む余地なんてなかったけれど――男にしては声が高いような、華奢なような、体の線が柔らかいような、気がする。
「ほい、コレ買うんだろ?」
「・・え、あ・・はい」
一番上、ではなくその一部下の雑誌を抜いてレジに向かう背中を追いかける。大学生という肩書きを背負っているのを知っているのは、あの人が浪人生と思しき客と大学の話をしていたからだ。「へー、深淵大目指してんの? 学部は?」「そっかー、理系だったらなんかアドバイスできたかもなんだけど・・一応は俺も潜り抜けた門だからさ」――そんな話を聞いていなければ、正直なところ大学生は思えない。流石に自分たちと同年だとは思わないが、それでもせめて高校3年生だ。
「(――いや、それにしても線が細い・・・か?)」
「? どしたの、阿部。眉間に皺寄ってるよー」
「・・・栄口、あれ・・男だと思うか?」
「え? そうじゃないの?」
栄口もどうやら話を聞いていたらしい花井も、きょとんと目を丸くしている。次に口を開くときには、どちらかから「阿部には女に見えんの?」という言葉が降ってきそうで、いや なんでもない、とそれを遮った。田島あたりに聞かれれば、次の日にはもう自分が男を女と見間違えたという話が尾ヒレ腹ヒレ、背ヒレに胸ヒレをつけて野球部員に浸透していることだろう。――正直、かなり面倒だ。
「はい、いつも通り350円」
「・・・ども」
「いつも、ありがとな」
ぐっと言葉が喉に詰まる。顔に血が上りそうになるのを、ランナー三塁を思い描いて必死になだめる。まさかこんな所でリラックスの条件付けが役に立つなんて思ってもみなかった・・ありがとう志賀、感謝するマジで。――・・というか、
「(お・・ッ、俺は何を男に動揺してんだ・・・!)」
ありえないありえないありえない! 何なんだよ、何やってんだよ俺! 落ち着いてよォく考えろ、冷静になれ・・ランナー三塁ええいついでだ、ランナー二・三塁バッター4番カウント2−3サヨナラあるぞ9回裏! いや、流石にちょっとやりすぎたか、手に汗かいてるっつーの。リラックスできるわきゃねーよ、使えねぇな志賀。――そうだ、冷静になれ。これで結構俺モテてるらしいし(篠岡経由クソレフト談)、わざわざ男にときめく謂れはねぇ・・・・・って今オレ、男相手にときめいたって認めちまった・・っ!
襲いくる激しい自己嫌悪に唇を噛む。ええい第一、男の癖にそんな顔するのが悪い・・そうだ、そうに決まっている! なよなよしやがって気持ちわりーな、妙な顔してへらへら笑ってんじゃねーよ三橋じゃあるまいし。もっと、もっとこうさぁ! 男ならどんと構えてろ・・・っていや、俺いったい何求めてんだ。
「えー、ここってエロ本ねぇのー?」
ごそごそと財布を取り出していた阿部の前に割り込み、ちょうど胸ぐらいの高さのレジ机にあごを乗せて田島が不服そうな顔をする。エロ本のない本屋なんて、本屋じゃねー! と世界の誰でもない、田島本人にしか通用しないであろう本屋の定義をぶつぶつ呟きながら。
「そういうのは置いてないの。他探せ、他」
「なんでだよー、本屋っつったらエロ本あるだろー!」
「・・お前、学校の成績悪いだろ?」
「え!? なんでわかんの!?」
パッと飛び起きた田島を器用に避けて、阿部は週刊ベースボールの代金を払う。「ちょうど、ありがとうございましたー」と言いながら浮かべた笑みは別になんともなかったのに、・・・なのに!
「だってお前、頭軽そうだもん」
言いながら、阿部にレシートを渡した手で田島の頭をくしゃりと撫でる、その顔が。
「(〜〜〜・・ッ、くっそ! 何なんだ、コイツは!)」
「えへへー、まぁな!」
「・・いや、今別にお前を褒めたつもりはないんだけど」
「あれ、そなの?」
なぁんだ違ったのかー と満足げに笑う田島は、大人しく頭を撫でられ続けている。普通の男子高校生なら拒絶するであろうその行為を、ゴマ粒ほどの躊躇もなく受け入れられるコイツの素直さというか、ガキ臭さが今の阿部には恨めしい。田島の短髪をわしゃわしゃとかき混ぜる指は阿部の目に細く、繋がる手首は酷く脆そうなものに映る。それは普段、努力の天才である我らがピッチャーをはじめとして、日々練習に励んでいる野球部の連中の手を見慣れているからだろうか。
「オレ田島! 田島悠一郎!」
「。田島は高一?」
「1年9組!」
「そっかー。部活楽しい?」
ぐ、と顔を上げた田島はもちろん、顔一杯の笑顔を浮かべて、
「うん! スゲー楽しい!」
毎度毎度のこととはいえ、どうして言った田島本人ではなく周囲の人間がどこか気恥ずかしくならなければならないのだろう。花井は苦虫を噛み潰したような顔で頬を赤くするという器用な芸当をして見せ、栄口はぽりぽりと頬をかいている。当の阿部自身は目の前で繰り広げられる、相手の笑顔に笑顔を返すというなんだか非常に居心地の悪い光景から目を背けるので必死だ。
「よーし。じゃあそんなキミたちに、ほれ。好きなの取っていいぞ」
田島の頭から離れた手が指し示したのは、レジ前のチロルチョコの箱。マジで!?やった! と歓声を上げた田島の手がチロルチョコの山を鷲掴みにしようとして、けれどそれを寸前で止めたのは花井である。
「なにすんだよー!」
「何すんだよじゃねぇだろ! お前少しは遠慮しろ!」
「だってくれるっつったのだぜー?」
オイオイ、いきなり呼び捨てかよ そう思った自分は決しておかしくないと思う。それにしても随分女っぽい名前だな、と考えながら思考に入り込むのはキャプテンの名前――うん、別におかしいことなんかないのかもしれない。
「いーよいーよ、好きなの取りな。ほら、お前らも」
ずい、と差し出されたチロルチョコの箱。恐縮しながら一つを手に取る栄口と阿部にまた笑いかけ、その笑顔のまま田島の頭をはたく。
「いってー! 何すんだよーッ」
「誰が鷲掴みにしていいって言った! 一個に決まってんだろ、一個!」
「ケチー!」
「・・・ほう、田島は要らないってか」
「やだ、うそうそ! オレもチョコ食べる!」