鴇鼠




「じゃあな、阿部ー! また明日ー」
「じゃ、じゃあ ね・・! 阿部、くん!」
「おー」

栄口と三橋と別れ、阿部はすうとペダルを漕ぎ出す。圧し掛かるような疲労が踏み込むペダルを酷く重たくさせ、体の中心部を支配する倦怠が今にも意識を溶かそうとする。けれど阿部はこの痺れるような疲労感が決して嫌いではない。今日もきっと家に帰り着いたら、風呂に入って砂でざらざらする薄茶色を帯びたお湯を排水溝に見送り、視聴率が平均30%を超えているらしいテレビドラマなどには見向きもせず一心不乱に夕飯をかきこみ、さっさと寝るのだろう。

よくよく考えて見れば、ものすごい日常なのかもしれない。平均的な男子高校生の送る生活ではないのだろうという自覚はある。けれど阿部は、それに対して不満を覚えたことも苛立ったこともない。おそらくこれは自惚れなどではなく、西浦高校野球部員全員の共通の意識だ。朝早い時間に起きるのは確かに大変だけれど、朝飯をかきこんでいるころには今日の練習メニューを頭に思い描いているし、授業中ふと目に入ったグラウンドに馳せる思いはたった一つに限られている。

練習を終え、へとへとになった体を引きずって進む帰路は総じて酷いものだが、疲労と眠気でぼんやりした頭を撫でる夜気の涼しさを阿部は知っている。こんな日に詰め込むメシの美味さを、就いた眠りの心地よさを知っている。
きゅ、とブレーキが小さく軋む。鳩羽書房から漏れる明かりは温かく、けれど控えめで。店先に自転車を止め、数秒迷ってとりあえず鍵をかけることにした。その時、漏れ聞こえてきた笑い声に阿部の思考は止まる。

「・・、田島?」
「お、阿部だ! スゲー、ホントにの言うとおりだった」
「だろー?」

いつもは――そう、つい先週までは、戸を開けた阿部にちらりと一瞥をくれるだけでいらっしゃいませの言葉もなかったのに。なのに、今日はレジ机に手を突き、身を乗り出すようにして喋る田島と笑い声を上げていた。おーい阿部、コッチコッチ! そう叫ぶ田島に無視を決め込もうと即決する。が、ヒラヒラと手を振るサンと、その手が持っていた目的のものがそれを許さなかった。

「今日は水曜だから、来ると思ってたよ。阿部」
「・・・ども」

ちら、と目をやった雑誌コーナーには、いつも通り週刊ベースボールが平積みされていた。どうやら、自分がやってくるのを見越してレジにとっておいてくれたらしい。じわりと心臓が熱を持って、それがゆっくりと全身に伝播する。

「ほれ、お前はそろそろ帰る!」
「えー、なんでだよ! もーちょっといいじゃん!」

む、と分かりやすく表情を歪める田島の頭に、サンの手が触れた。まるで犬猫を撫でるようにぐしゃぐしゃとかき回して笑う。何だよのケチー、と唇を尖らせる田島の鼻を、細い指が きゅ とつまむ。

「疲れてるくせに、こんなとこで時間潰してんじゃないっての。早いとこご飯食べて風呂入って寝な」
「ちぇーッ! じゃあまた明日来る」
「明日は入ってないよ。来るならあさって」
「ん、わかった」

じゃあなー! 阿部ー、明日また部活でなー! ――また学校でな、と言わないあたりが田島らしいと思う。上機嫌でチャリにまたがったそう大きくない田島の背中が、夜の闇に飲まれて消える。きっと今頃は、大声で鼻歌を口ずさんでいることだろう。

「・・俺のこと、男だと思ってたんだって?」
「・・ぇ、いや、それは・・」
「気にしなくていいよ、慣れてる」

どうして“俺”なんて言うのか とか、男みたいな格好してるのか とか、あんなに田島と仲良くなってるのか とか――なんでこれをレジにとっておいてくれたのか とか、いつから俺が毎週水曜にこれを買いに来てることに気付いたのか とか・・・一気に吹き出る疑問はしかし、喉を通り過ぎたあたりで散り散りになって消える。聞きたいことや言いたいことはもっと他にあるのに、口から飛び出したのは実にどうでもいいことで。

「・・あの、この前はホント・・スンマセンっした」
「この前・・ってああ、金曜日のこと?」

まぁ、やっぱちょっとビビったよ。 そう言いながら、けれど表情には困ったようなものはなくて。あるとすればむしろ、面白がっているような楽しんでいるような――随分と肝の据わった奴だな、と阿部は思う。こりゃもう、大々的に“女子大生”という響きに対して抱いていたイメージを塗り替えたほうがいいのかもしれない。いや、このという人間が特殊なのだろうか。・・・あ、なんかそんな気がする。

「阿部は捕手やってんだっけ?」
「はい。・・えっと、」
「田島に聞いた。俺はもう、お前ら全員の名前と基本的なポジションを覚えた自信があるよ」

――田島のヤロウ、いつの間に!

「もしかしてアイツ、毎日来てるんスか?」
「毎日かどうかは知らないけど・・とりあえず、月曜は来たな」
「迷惑、なんじゃ・・」
「あはは、阿部だって知ってるっしょ? この時間帯、電気代が無駄なんじゃないかと思うくらい客来ないんだって」

へらり と浮かべた笑みは阿部の目から見ても酷く不謹慎だ。けれど――この人の纏った空気はなんだかとても、居心地がいい。自惚れや願望などではなく、ここにいてもいいのだと言外に告げられている気がする。肩から無駄な力が抜けて、心がほどかれる気がする。互いが名前を知ってまだ1週間しか経っていないのに、しかも絶対この居心地の良さを感じているのは自分だけに違いないのに。不思議で・・・けれど、決して不快ではない妙な感覚。

「田島がさぁ、」

苦笑と共に、椅子に腰掛けたサンが言葉を紡ぐ。レジ机に肘を突き、手の平に形のよいあごを乗せて。

「まるで自分のことみたいにお前らのことを話すよ。“ウチのバッテリーはすげぇんだ”って」
「え・・」
「三橋がすげぇのは勿論分かってたけど、阿部もスゲー奴だった って」


「キャッチャーの練習し始めて、改めて気付いたらしいよ。自分とこのチームの、バッテリーのすごさに」


今世界を包んでいる夜のような漆黒の瞳。それと真正面から向き合って、告げられた言葉の意味を頭で噛み砕いて、走り去っていく天真爛漫な背中を思い出して。それらがまるで、瞑想のときに繋いだ隣の奴の手の温度のように体に溶ける。じわりとした熱が体の奥深いところから湧き出す。視線の先の、ふわりとした笑みにとくんと心臓が音を立てる。

「がんばれよ」

求めよさらば与えられん。

(・・・田島、これやる)(うお!? 阿部、このパンもらっていいのかっ!?)(・・まだ食い足りねーような顔、してるからな)(うっは、マジで!? やったー!)                  (・・・ちょっとちょっと泉さん、こりゃあ明日雪でも降るんじゃないですかね)(いやいや、明日の天気は槍でしょう クソレフ(み・ず・た・に!)(――篠岡に頼んで、お前らのおむすびは白むすびにしてもらうように頼んどく)((ごめんなさいすみません勘弁してください阿部さんそれだけはマジで))

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020:求めよさらば与えられん。.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date  07.12.19   up date  08.02.09
それぞれみんな、「コイツのこーゆーとこ、スゲェよなぁ」と思える間柄だといい。